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「詩歌梁山泊」とは何か?

現在の日本には、短歌、俳句、自由詩(狭義の詩)という三つの詩型があり、共存しているといって良いでしょう。
三つの詩型はお互いに影響し あっていますが、住み分けがされているのが現状です。
そのことが日本の詩にとって幸せなのかは、はなはだ疑問です。
当企画ではシンポジウム、ホームペー ジ、印刷媒体などを媒介とし、三つの型の交友の促進を目的とします。
それぞれの詩型の特徴や相違点を考え、時には融合するなどし、これからの表現の可能性を探ります。
戦後の詩歌の時間を問いなおす試みでもあります。   


代表:森川雅美 

実行委員:藤原龍一郎、筑紫磐井、野村喜和夫、高山れおな、
       田中亜美、嵯峨直樹
山口優夢、岡野絵里子、
       渡辺めぐみ、中川宏子、
ブリングル御田


→参加の申し込みはこちらのフォームからどうぞ←

2010年10月19日火曜日

第1回シンポジウム終了

投稿者 森川雅美

120名ほどの参加があり、盛会でした。
懇親会も60名くらいの参加がありました。
ありがとうございます。

次回は来年の3月か4月を予定してます。

2010年10月16日土曜日

明日は本番です

投稿者 森川雅美

「詩歌梁山泊~三詩型交流企画」マスコミ関係の取材も多く。申し込み115名で129席ほぼ満席です。ただ、当日キャンセルはあると思います。

詩歌梁山泊~三詩型交流企画」シンポジウム1部で取り上げる作品5(変更分)および6

中尾太一『御世の戦示の木の下で』(思潮社)より

アトモスフィア

東京、洞爺丸が消えたころ、屋堂羅の神社で首をつって死んだ男がいる、と聞いた
東京、類縁の男が事業にとめどなく失敗していた、首をつって死んだと聞いた
東京、山村開発センターで戦艦大和の元乗組員の講演を聞いていた、夏休みでプールの帰り
だ、グラマンが呼吸のために浮かび上がる油のなかの彼らを狙った、スクロール
東京、畳の上に蟻の行列の幻を見る祖父の手のことを最初の詩で書いた
東京、それ自身が失語を伴って現前する父の笑顔のおくゆきを探している
東京、ルビコン、アンフォルメル、雛罌粟、テクニクラート、知悉、跨線橋、パチルス、ノマド、劫初
東京、幾つの未決を越えているか、首都高速道路、東名自動車道路、名神自動車道路、中国自動車道路、国道二九号線、たいてい朝方に着くから夜は町の光は見えない
東京、深夜、白いTシャツを着て青看板だけを頼りに歩いている子供の集団を、ぼくは眺めていて、向うに野球場のボールと見まがうばかりの巨大な焼却炉が見えた
東京、傷は若さを止める、そして止揚されない、幾千にも枝分かれしていった局地へは赴かないが、幻影がそこにいる、それを壊しに行こうか、という飢餓、ノマド、ルビコン、、跨線橋、パチルス、エトセトラ
東京、光なしで写真が撮れるか、と聞いた
東京、光なしで写真が撮とったと聞いた
東京、隣の酒屋の店主が見えないと思ったら癌で死んでいた。その前に家を改築したという。
その必要があったらしい、と聞いた
東京、教会の帰り道に聖者のファシズムを空想した、あと「透明な人類」へ架ける橋を想像した
東京、最終的に死を投企した第一層の時間軸のさいはてで経験されたさいはての死を苦悶する自己が人間存在であり、その自己をわれわれが救い得た確証を求めて走る球体の外縁の、聖痕、そこから生える立木の、一葉一葉がかつてあり得ぬことと措定された現象の継続の光で濡れていること、その直覚が何年間もある


この世の罪を被る

馬は老齢だった
老齢の馬とは話をすることが出来る、それはほんとうのことだ
ジョッキーでは補えない何かを僕は持っている
馬だってそうだ、競走馬じゃないから昔の話をする
ちりばめられたまっ黒な瞳で地球の年齢を知ったり
もっとこちに来てと
熱いほほをなでてやると父祖の言葉を眼から流した,カリュ―
イグエス、マノス、ドミノ、テキエロ、これらはラテン語かスペイン語か馬語か
「この世の罪を被る」という意味だった
僕はさらのに西へ向かった
この辺でホイトマンは民主主義をあきらめていたと思う場所には町が拓けた
ギンズバーグが山の中で書いた詩はべとべとの蜂蜜のにおいがした
そこに故郷がある、というをラテン語かスペイン語か馬語で
イグエス
マノス
ドミノ
テキエロ
サラムニ
となり、これは「この世の罪を被る」という、含意だった
みんな、何かを含意していた
故郷に帰れない何かを含意していた
それを伝えたいためにカリューは馬語以外の言葉を覚えるが
疲れたろ
もう、ほんとに馬かよ、君は
ほら、あすこで立ちすくんでいる人がいる
彼はぼくよりずっと年下で、ずっと賢くてやさしいから
随伴を頼めばいい
一番初めに彼は、君の体についた汚れを
青いタオルで拭いてくれるだろう
互いに帰る場所が違っても
行ける限りのところまでは一緒に行けるように
長い夜のあいだにそっと朝の
善と悪に満ちた予感を埋めに行くことも
彼の仕事だ
彼は君のことを好きになる
じゃぶじゃぶと水遊びをしていた川からあがって
君の体を触りに行く
カリュー、君はそんな子供のことをどう思う?
君の行き先が変わることがあにことを知っている
そんな子供の唇からこぼれる言葉を
低音のユニゾンで追いながら、いつか深い言葉で追い越して
イグエス、アノス、ドミノ
テキエロ、サラムニ、アイシテル
すべてこのよのつみをかぶるよ



大江麻衣「昭和以降に恋愛はない」(「新潮」7月号)より

夜の水

花に感動できません。乳首舐められても感動できません。どちらも自分は困らないけど、他人が困る。わたしは、おんなのひととして、色んなものが欠けているのだと、おもわれるのだけが困る。

最近の女子高生はふとい脚にも痣みたいな唇のあとをつける、それが短い制服のスカートの裾から見えると吐きそうになる。男子の唇の痕は汚い。男はなぜこの女子の、今まで他
の男が触れていないところを探さなかったのだろう、こんな太い脚の、ほんのちょっとに、汚い痕を、蚊のように、他の男が吸っただろう場所の上に、情けない、他のものが触れて
いない場所に興味がないなんて、全てに唇を触れようとすればこの女子の体はもう全部赤褐色になって本当に醜いのだけれども、そんな姿だったらわたしは感動して話しかけたい。
いやあもう本当醜いけどなんて素晴らしいこと!だけどまあ男子女子はそんなんで満足するのだった。そんなものでそんなもので、だから恋愛はだめだ、昭和以降に恋愛はない、街はいつでもばかみたいにセックスにしかみえない男子女子が連れ立って歩く、みんな死なないといけない。 そんな今の世の中でも海鼠はすてきだ、ただ、砂の上でじっとしていて、手で持つだけなら、それでもじってしている。感動はしない。神様、アダムは土からうまれた、土とは砂のことで、まずは性器から作ったのでしょう。粘土で作りやすいかたちをしているものね、てきとうに丸めたり伸ばしたり、そこから発生したのでしょうね、人間は。なので、海鼠はほんとうのほんとうに、最初の生きものなのかもしれませんね。『そうだね、海鼠は手で握ってみて、振るとだんだん硬くなってくるよ、中から白いのがびゅっと出てくるから、ね、海鼠。形質と質量がね。あんたさ、海鼠ばっかり触ってないで、自分が乳首で感じられないことについて、もっと真剣に悩んだほうがいいんじゃない『かな。ただでさえ汚いんだから』 君の考えからすれば、海鼠なんか人間の出来損ないだ(といって私の胸をさわる)、わたしはおんなだから、海鼠を料理せずにそのまま口に入れたり、さわったりしたいと思うのは、当たり前だということ。おんなも、たどっていけば海鼠から生まれた。人間が粘土に戻る時、人間は砂に還れても海鼠にはもどれない。海鼠はただ海鼠としてじっとしていて、振られることもないから硬くなることもない、ただ何にもならずにずっと、海鼠だけがみたいな、そんなことをしていても、置いていかれないような、生きていられるような、感動はせず、ただじっと、海鼠を、みつめる。

(胸と)腰以外を好きになってくれる男でもいたらいいな、だいたいがみんなそれを必死でこねる、発達しない。女子はひとりの夜いつも自分で自分をおしまいにする、自分でこねているとこの奇妙な形の性器一帯は粘土みたいに思えてくる必死でこねている、いやになる、作業。セックスはひとつとひとつの作業、だいたいが一人で持つ。みんながこうやって、こねているのだから…やさしいひとの顔さえも変な顔にみえてくる、怯える。そのひとが自分からいなくなってしまう!男はいいように触るので、その形は自分で直すしかないのだから、女子が性器をいじるのはそういうこと粘土ややわらかくするには水がいる。女子の水は体内から外へそっと出る、 夜に。

金魚すくい

新聞の投稿覧を眺めていると金魚くさくなる。いつのまにかポイまで持たされていて朝からたまらない。みんな水面のほうを泳いでいる。言葉は活字になって水をゆらす。赤いのと黒いのが泳ぐのをみている。小学校三年生女子『家事の大切さを知り、母親に感謝』。母親は娘に作文を書かせた。「ゆいました、じゃなくて、いいました、と書きなさい」原稿用紙には大人の字がだんだん増えていくので書きなおす。宛先は、母親がえんぴつでした下書きしたもの上を娘が油性ペンでなぞる。すきまが余り無くむずかしい字はいびつな丸になる。水面に浮かぶ。担任先生が朝礼の時間に記事を読みあげる。水槽を通さないクラスメートの目、憂鬱、という言葉を少女はまだ知らないし読めないが、気持ちのうえではわかる。将来紙を書くことになる金魚はいらないのだと、見送る。夏頃になると、六十四歳男性『女性の露出、性犯罪を誘発』。数週間後にばしゃばしゃと反対意見が掲載される。よく見ると黒いのに白い斑点がある。金魚を選別しているところを見てみたい。言葉を声にすれば空気は割れるし書けば汚れる。傷つかないものがない。金魚は苦しいのか空気を吸いにきている。ポイを入れれば水がまた波打って金魚は逃げる。私も下手くそなのだ。金魚を乗せたポイはたちまち敗れて金魚は逃げた。「元気もらった」「若者よりも大人が」「夢」「乗車マナー」だとうまく逃げるが「最近のネット右翼について」「肥満は不快」「死んでみたいな」は、沈んでいるのか見えない。水の流れなど知るわけがない、見ているぶんにはきれいだね。透き通っていてどこからでも眺めている、まなざしだけがある。宛先はたまにしか載らない。それでも毎日金魚は生きていて水をかき廻している。

2010年10月13日水曜日

申しわけありません

投稿者 森川雅美

当日は満員のため、少し狭いかもしれません。申しわけありませんが、ご了承ください。

2010年10月11日月曜日

申しわけありませんがパネラーの変更があります

投稿者 森川雅美

10月16日のシンポジウム、杉本真維子さんがどうしても避けられない急用で参加できなくなりました。
直前で申しわけございませんが、パネラーを杉本徹さんに変更させていただきます。
また、それに伴い取り扱う作品も、岸田将幸『〈孤絶ー角〉』から中尾太一『御世の戦示の木の下で』に変更させていただきます。
申しわけありません。

http://www.ecf.or.jp/shiba_fukio_haiku2/result01/029.pdf

作品5つつめは自由詩(詩)です。

岸田将幸『〈孤絶ー角〉』(思潮社)より

(ここにはおまえの深いところにある声を、それが深ければ深
いほど喜んでくれる人たちがいる 詩はためらい切った人の声
だ おまえが深い声を漏らせば漏らすほど喜んでくれる人たち
がいる 詩は広い世界ではないけれどその空は舌が抜けるほど
高い 詩はおまえの時にまったく不可解な使命感も受け入れ、
やがてそのまま受け止めようとする人たちのもの だから詩を
書く人同士は怖しく離れている ここで書いている人は互いに
励まし合わなければならない 詩は慈悲深い絶壁だ 極限の人
間関係だ。人世に不足するのは何度でも愛され直される場所だ
そして愛という名の下に自由はない やむにやまれず出産する
宇宙の滲みども――)

周りではタオルの縫製を内職としている家が多かった。おばちゃんの家には、道に面するタオルが積み上がった部屋とその奥、南側に台所があった。その向こうは知る術もなかった。家の横には小さなみかん畑があって、横からその向こう側を見ようと思えば見れたはずだが、そうはしなかった。タオルの積み上がった部屋におばちゃんはいなくて、その向こう側の台所にもいない。おばちゃーんと私は呼んで、台所を通り抜け勝手口を開けてその向こう側にいってしまった。おばちゃんはいま風呂に入っとによと笑った。明るい地方の人の明るさというものはある。おばちゃんは庭に、水を溜めた金だらいの中に素っ裸で納まり白いタオルで背中を洗って最中だった。おばちゃんは銀歯や金歯がいっぱいで、笑った時に見えるそのキラキラは忘れることができない。