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「詩歌梁山泊」とは何か?

現在の日本には、短歌、俳句、自由詩(狭義の詩)という三つの詩型があり、共存しているといって良いでしょう。
三つの詩型はお互いに影響し あっていますが、住み分けがされているのが現状です。
そのことが日本の詩にとって幸せなのかは、はなはだ疑問です。
当企画ではシンポジウム、ホームペー ジ、印刷媒体などを媒介とし、三つの型の交友の促進を目的とします。
それぞれの詩型の特徴や相違点を考え、時には融合するなどし、これからの表現の可能性を探ります。
戦後の詩歌の時間を問いなおす試みでもあります。   


代表:森川雅美 

実行委員:藤原龍一郎、筑紫磐井、野村喜和夫、高山れおな、
       田中亜美、嵯峨直樹
山口優夢、岡野絵里子、
       渡辺めぐみ、中川宏子、
ブリングル御田


→参加の申し込みはこちらのフォームからどうぞ←

作品5つつめは自由詩(詩)です。

岸田将幸『〈孤絶ー角〉』(思潮社)より

(ここにはおまえの深いところにある声を、それが深ければ深
いほど喜んでくれる人たちがいる 詩はためらい切った人の声
だ おまえが深い声を漏らせば漏らすほど喜んでくれる人たち
がいる 詩は広い世界ではないけれどその空は舌が抜けるほど
高い 詩はおまえの時にまったく不可解な使命感も受け入れ、
やがてそのまま受け止めようとする人たちのもの だから詩を
書く人同士は怖しく離れている ここで書いている人は互いに
励まし合わなければならない 詩は慈悲深い絶壁だ 極限の人
間関係だ。人世に不足するのは何度でも愛され直される場所だ
そして愛という名の下に自由はない やむにやまれず出産する
宇宙の滲みども――)

周りではタオルの縫製を内職としている家が多かった。おばちゃんの家には、道に面するタオルが積み上がった部屋とその奥、南側に台所があった。その向こうは知る術もなかった。家の横には小さなみかん畑があって、横からその向こう側を見ようと思えば見れたはずだが、そうはしなかった。タオルの積み上がった部屋におばちゃんはいなくて、その向こう側の台所にもいない。おばちゃーんと私は呼んで、台所を通り抜け勝手口を開けてその向こう側にいってしまった。おばちゃんはいま風呂に入っとによと笑った。明るい地方の人の明るさというものはある。おばちゃんは庭に、水を溜めた金だらいの中に素っ裸で納まり白いタオルで背中を洗って最中だった。おばちゃんは銀歯や金歯がいっぱいで、笑った時に見えるそのキラキラは忘れることができない。

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